金沢QOL支援センター株式会社代表取締役である作業療法士の岩下琢也にインタビューを行いました!
そもそもなんで医療の道を志したのですか?ー
そうですね。
実は今はこんな感じ(元気もりもり)ですが(笑)、私は小さい頃本当に身体が弱かったんです。
最初はこの世に生を受けた瞬間から、
先天性の心室中隔欠損症という病気を患っていまして、心臟の右心室と左心室の間に孔(穴)がありました。
運良く、大きな手術までには至らなかったようなのですが、
小さい頃は心臟の検診によく行ってましたし、運動には若干の制限がありました。
その心臟の病気自体はさほどしんどくなかったのですが、
一番はしんどかったのはもの心がついた時から「喘息」を患っていたことでした。
(喘息の時のイメージを本人にやってもらいました。)
小児の喘息は珍しくないと思いますが、私の場合本当につらいもので、
朝や運動時はいつも苦しくて肩で呼吸していたのを今でも覚えています。
季節の変わり目なんかは強い発作が起きやすく、地面に這いつくばってでしか動けないほど苦しかったですね。
朝晩の内服薬はもちろん、よくサルタノールインヘラーという携帯吸入器をもって、発作時に「シュッ」と吸入していました。
小学校の頃は喘息で、何回も学校を休みましたし、4回くらい入院もしましたね。ほんとにしんどかったです。
一般的にある程度身体が大きくなる小学校高学年~中学にかけての成長に合わせて気管支も太くなり治癒されるみたいなのですが、私の場合は高校に上がっても朝夕の薬は外せなかったですね。
そんな感じで、とにかく医療機関のお世話になることが多かったんですね。
そして、身体は成長していくにつれて少しずつ元気になっていったんですが、なんとな~く勉強もせずに、中学生活、高校生活を過ごしていました。
そして、高校3年生の進路を決めるときに、なかなか決めれずにすごーく悩んでいたんです。
私はいわゆる5教科はもっぱらダメで「0点」も数学ではよく採っていました。
高校は進学校だったのでセンター模試がありました。
もちろん全然わからなくて、いつもマークシートの塗りつぶしをいかに素敵な模様にするかに全力を注いでいましたね。(笑)
ハートやうんちマークをよく作っていました。(笑)
(数学で「0点」を採った時のテンションをやってもらった。)
5教科は不得意でしたが、美術、図工、音楽、家庭などのあんまり「頭がイイ」と評価されない科目はいつも大得意でした。
今考えると、答えがあるわけでなく、自由に発想して自分を表現するクリエイティブなことが好きだったんだと思います。
特に音楽が大好きでピアノ、ギター、ベース、ドラム、パーカッションなど何でもやっていました。
友達と良く邦楽から洋楽までいろんなバンドのコピーもしていました。
やっぱり仕事をするなら自分の苦手なことだったり、弱みではなく、やっぱり自分の好きなことを仕事にしたいな~。と思い、最初は漫画家か、ミュージシャンになろうと思っていたんです。
ところがどっこい、安定するのかな~、ずっと本気でやれるのかな~、と現実味が帯びず、しっくり来てなかったんです。
そんな時、母親(看護師)から
「あなた、そういうの(芸術的なこと)が好きなんならそれを活かしてできる医療の職業あるし、なれば?」と。
「自分の好きなことを通して患者さんの治療ができる!?」
それを知って、なんか面白そうな職業やな。
と思い、作業療法士になるには?という本をたくさん読みました。読んでワクワクしていたのを覚えています。
小さい頃。病院の先生も看護師さんも本当に優しく接してくれていたこともあり、
それこそ「医療」というものに漠然と憧れていたんだと思います。
自分の好きなことを通して、自分が小さい頃からの憧れの存在になれる。
ということにスイッチが入り、完全にド文系頭でしたが、生物や数学の勉強をすこぶる頑張ってなんとか、作業療法士の学校に滑り込みセーフで入学することができました。
作業療法士になってから、最初はどのように働いていたのですか?ー
作業療法士になって最初の職場は「精神科」を選択しました。
なぜ精神科を選択したかというと、精神科は20~30歳代の若い患者さんが多い。
その若い方、生産年齢の方達の社会復帰を担えるのは、リハビリテーション職として患者さんにも、社会にも非常に価値のあることではないか。
と思ったからです。
しかし、精神科を経験すると本当に大変であり、残念な体験もたくさんしましたね。
まず、現在でもそうなのですが精神科はいわゆる「社会的入院※1」の方がたくさんいらっしゃいまして、20~30年入院している方が珍しくありませんでした。
1つの病院にとどまらず、何度も転院を繰り返して社会に参加できていない精神障害の方もたくさんいました。
私は、そういった長期入院している患者さん達に、「精神科作業療法※2」という形で仕事を担っていました。
※1 「社会的入院」…医学的には入院の必要がなく、在宅での療養が可能であるにもかかわらず、ケアの担い手がいないなど家庭の事情や引き取り拒否により病院で生活をしている状態。
※2 「精神科作業療法」…精神障害を持った方の社会復帰を目的に行われるリハビリテーション。作業療法の作業(Occupation)とは日常生活、仕事、遊びなど人間の日常生活全般に関わる諸活動をいう。 精神科作業療法では日々の生活で行われる様々な作業、活動を通して、精神症状の安定、コミュニケーション能力の向上、社会参加を促していく。
治療、仕事自体は大変なこともありましたが、本当に楽しかったです。
それこそ患者さん以上に「作業」を楽しみ、陶芸、革細工、パソコン、編み物、料理、音楽療法など、できることはなんでもやっていました。
もちろん、ただそれらを提供するのではなく、「治療的」に用いることで初めて作業療法になります。
特に気合が入ったのは「園芸療法(農耕)」でした。
荒れた土地を患者さん達と開拓し、農業に詳しい患者さんかに色々教えてもらって、たくさんの野菜を収穫しましたね。
そして患者さん達は、耕す⇒種まき⇒水やり、除草⇒収穫 といった一連の作業で活動性の向上や症状の軽減に繋がっていました。
しかし、様々な作業療法を実施しておりましたが、「社会的入院」の方が退院に至ることはほとんどありませんでした。
そんな中でも、なんとか主治医、看護師、ワーカーさんと掛けあって退院に至るケースもありましたが、数日、数週間でまた警察沙汰になり戻ってきたりと残念なことが珍しくありませんでした。
「若い患者さん達を退院してもらって幸せになってもらいたいのに、、、」
「こんなに症状は落ち着いているのに、何故ずっと入院しとらなアカンのや、、、」
と気持ちだけが焦り、日々悶々とし仕事をしていたことあります。
そして、いろんな経緯があり、地元の石川県金沢市に帰ることが決まり2年でその精神科病院を退職することになりました。
退職する1週間前くらいでしょうか。
精神科では退職の意を患者さんに伝えるときに少し気を使うのですが(不安や依存が強い方が、スタッフの離職で不安定になる可能性があるため)、ある安定した患者さんに自分の退職を伝えました。
その患者さんは40代、男性。
統合失調症(破瓜型)という病名で陰性症状(喜怒哀楽などの感情が乏しい、引きこもりなど)、コミュニケーション障害が著しい方でした。
しかし、作業療法活動の中で、その方の好きな活動を通して信頼関係を築きながら、やりたいこと、思いなどを真摯に聞いたりし、少しずつ活動性や意思表示が豊かになっていき、私自身もすごくやりがいをもって治療していた患者さんの一人でした。
ただ、意思表示が豊かになっていった。と言ってもこちらの質問などに対して、頷いたり、首を横にふったり、又は「うん」「ううん」というようなわずかな言葉を発する程度でした。
私は退職の挨拶をその患者さんに伝えました。
「◯◯さんは私が好き勝手?いろいろな作業、活動をやっていたのを、
いつも参加してくれて、助けてくれて、教えてくれて嬉しかったです。今までありがとうございました。」
すると、、、
今までほとんど言葉を発することも少なかったその患者さんが、、、
「岩下さんが来てくれて、本当にいろいろできて入院生活が楽しくなったよ。こちらこそありがとうね。次の所でも頑張ってね。」
と言ってくれたんです。
私は涙が止まりませんでした。
それと同時に明瞭な「思い」が生まれました。
「こんなに心がキレイな方が社会で活躍できないのはおかしいやろ!!」
「入院生活が楽しくなったったよ。ーてどういうことやねん。地域に出て、社会に参加したらきっともっと楽しくなれるのに!!」
「障がい者が《障害があるから問題》があるんじゃない!!障がい者が社会参加できない《社会が問題》やん!!」
と強く思いました。
なんというかですね。
悲しく、憤りさえもありましたが、自分が長期的なビジョンの中で解決していかなきゃいけないミッションなんだな。とその時心に決めました。
でも、どのような経緯で「創業」を決心したのですか?ー
退職後は地元の大学に入り直し、医療職として研究を学ぶことを選択していたので、当時は「精神障害の方の社会復帰を支援できるような研究をしていきたい!」
ということを思っていました。
大学在宅中には「回復期のリハビリテーション病院」や「認知症デイサービス」など作業療法士として精神科とは違った領域の分野も経験したのですが、どの職場でも共通して思ったことが1つありました。
やっぱり作業療法士として本当に患者さん、高齢者さんを幸せにできるのは施設や病院じゃ無い気がするな、、、。施設は病院は「問題」や「症状」に対してアプローチできても、「人生」「生活」に対しては十分なアプローチはできないんじゃ、、、。
自分の理想の医療を提供したいな。
課題は常に地域や社会にあり、地域医療の充実がまず必要だな。
と体感することができました。
研究職を通してそのような社会問題、地域医療の貢献に寄与する。というミッションも自分にとっては筋が通った形にはなったと思うですが、やっぱり「現場」が好きだったんですね。
そして行き着いた願望は、
自分が理想とする地域医療、在宅ケアの事業所を作りたい!!!
高齢者さんでも障害者さんでも皆が活躍できるような社会を作りたい!!!
という確信を持つことができ、26歳で独立し、27歳で法人設立、代表者になろう!と23歳の時、決めました。
何故、医療職で安定しているのに独立なのか。ー
ということをたくさんの人に聞かれ、時に否定もされました。
しかし、自身が独立して事業を担うことが、自分の理想の地域医療の推進の為の最も近道であると思ったのです。
そして思い、情熱、価値観は自身の「安定」というものより、上位の概念になったという感じです。
その決心の後、起業に向けての「挑戦」と「努力」がスタートしたのです。
正直、創業って大変じゃなかったですか?お金はどうやって作ったのですか?ー
はい。
めちゃくちゃ大変でした。(笑)
会社の起こし方なんて、もちろんわからなかったのでまずはとにかくお金を貯めるしかない!と単純に思いました。
必死に働いてお金を貯めながら、会社とはなんぞや?どうやって設立するんや?ということ。
そして、どんなこと、どんな事業を通して地域医療に貢献するのかを考えていこう!と選択しました。
その時、ワタミの渡辺美樹氏の書籍を読んで、佐川急便で1年で300万円を貯めて創業したことに刺激を受けていたので、
「よし!1年でとりあえず300万貯めるぞ!!」
という目標を立てました。
そして、血の滲むような努力、、、。
という感じではなく、大変ではありましたが、目標に対してスイッチが入っていたので割と楽しく働くことができました。
実家に住むこともできたので、順調に毎月30万くらい貯めることができ、創業の種金を作ることができました。
どうやって30万貯金しながら、起業の勉強をしたか、、、というと、正社員でデイサービスで働きながら、民間病院のデイケアのパートとしても働き、週に6~7日ほど働いていました。
たださすがに、週に6~7日働いていると、じっくり本を読んだりする時間はあまりなかったですね。
少しでも勉強をするために朝早く仕事に行き、車の中で読書をしたり、通勤は常に車だったので、車の中で様々な起業に関するCD、能力開発、成功者、リーダーのCDを聞いたりして、勉強していました。
今まで医学の勉強しかしたことなかった私にとっては大変刺激的で、大きな学びとなり今でもその時に相当貪欲に勉強してきたことが糧になっていますね。
で、すんなり起業できたんですか?
そうですね。
もちろん「すんなり」は起業できておりません。
勉強はたくさんしたんですが、やっぱり「自転車の乗り方」をいくら本で呼んだり、聞いたりしても自転車には乗れないのと一緒で、本当に経営ができるか不安で不安でしかたがありませんでした。
ただ、あるご縁をきっかけに介護事業を担っている社長さんと出会うことができたんです。
その社長さんに大変可愛がって頂けまして、その会社では介護事業のフランチャイズ展開のようなことをやられていたので、それを6ヶ月ほど少し手伝わせて頂きました。
分からないことばかりでしたが、事業計画の作り方、営業の仕方、そしてお恥ずかしながら、名刺交換の仕方も初めてこの時学べたんです。
6ヶ月間お手伝いさせて頂いて本当に本当に勉強になりました。
その経験もあって最初は創業時にお金を作ることが第一の壁だと思いますが、
他資本を調達する際に(いわゆる借入)、地方銀行さんに事業計画書やプレゼンを評価され、難なく資金調達することができました。
そして、次に最も大事な「人」を集めること。これはすごく大変でした。
結局お金を貯めながら、様々なことを考えて自分がまず実施したい事業形態はどんなものだろう〜。と模索していた結果。在宅で医療を提供できる「訪問サービス」だ!という考えに落ち着いていました。
リハビリテーション職で訪問リハステーションを開設することは現行の法律では不可能なので、「訪問看護ステーション」という形をとり、在宅で医療、リハビリテーションが必要な方に「真のQOL向上の支援を」というミッションを掲げ、ステーション設立することにしたんです。
そして「人」を採用しなければならない。
尊敬する作業療法士の先輩が一緒になって創業メンバーに加わってくれたところまでは良かったのですが、看護師さんを3人程度集めることが本当に困難で(訪問看護ステーションは最低看護師さんが常勤換算で2、5人が必要)、毎日考えられる限りの採用のことを毎日やりつくしていましたが、中々採用できませんでした。
法人を設立してから、ステーションを開設するまで「人を集められるか?」ということが心配で、不安で本当に眠れない日々が続きました。
結果的には、なんとか前職のご縁が繋がり、常勤2名、非常勤2名を採用を採用することができ、無事2012年4月に訪問看護ステーションを設立することができました。
ただ実力ではなく「運」が良かったな〜。
と本当に思っていますし、その時応援してくれた方達には今でも感謝してもしきれない気持ちですね。
創業してからは?すぐに順調にいきましたか。お金の問題とか…
いや~。ほんと大変でしたよ~。
創業当初は、最初はやはりその通りで「お金」の問題が一番でしたね。
余裕をもって借入したつもりでしたが、診療報酬や介護報酬は2ヶ月後に現金になる、ということがイマイチどのようなことかわかっていなかったので、いわゆるキャッシュフローがピンチになりました。(笑)
(ピンチな様子をやってもらいました。)
つまり順調に地域に必要な訪問サービスを提供はさせて頂いていたのですが、サービス提供量が多くなると「人件費」は必然的に高くなるので、2ヶ月間、現金が入ってくる前に毎月膨らむ給与費が出てしまうことになっていったので、すごく当初はヒヤヒヤしていましたね。
しかし、何故か自身の中に
「患者さん、利用者さん達に、そして地域に良いことをやっているんだからきっとなんとかなるぞ!!」
という漠然とした自信のようなものがありましたし、将来像はプラスなイメージもできていたので、結果的には追加で借入等もすることなく順調に事業としては成長していきました。
創業して良かったな。と思うことはありますか?
ありすぎて話すと1日以上かかると思います。(笑)
何より、たくさんの「夢」「願望」が叶っていったのが本当に嬉しかったですね。
・看護師とリハ職がフラットに連携し、利用者さんのQOLの向上というベクトルで地域医療を提供する。
・精神科訪問看護を看護師さんとOTで地域で中心的に担っていく。
・「できない」と最初から全て諦める事業所ではなく、「難しいけど、できるかもしれない」という機会を常に発見し、支援できる事業所にする。
・地域でたくさんの事業所とシームレスな連携ができるように、「顔の見える連携」を医療職の方から推進していく。
これらは開業当初からイメージしていた理想ですが、全て実現していくことができました。
今でもたくさんの大変なことはあるのですが、少しずつ、自分とスタッフが理想とする医療-介護サービスを創造し、社会に価値を提供していっております。
最近では、先ほどもお話しました、若い生産年齢の方の社会復帰を目指して、障がい者就労支援の一環として、デザイン、WEB、農業、飲食事業を展開しております。
つまり、訪問看護で在宅支援にてADLが向上し、「家での」生活が安定した方に対して、次は「社会での」生活が安定することをアプローチとして働く場として事業展開をしているんです。
障がいがあっても稼ぐ!!
というビジョンを障がいスタッフとともに共有し、日々社会的自立を目指して、共に働いている障がい者の仲間がたくさんいます。
(農業での就労支援の様子)
私は「大変」という言葉はいつもすごくポジティブに使っていまして、
「大きく変化(進化)する」と常に考えています。
これからも患者さん達も、スタッフさん達も、社会も、皆が幸せにWINWINになる事業を展開していきたいと考えています。
今後はどのようなビジョンなのでしょうか?
そうですね。
私たちは中期ビジョンとして
「地域で医療‐介護を創造し、世界へ発信する」
というビジョンを掲げています。
どういうことか詳しくお伝えしますと、
現在、弊社は名古屋と金沢で事業を担っているのですが、「地域包括ケアシステム※1」を国、そして各地域で推進していく中で、私たちもその地域包括ケアシステムの中で如何に「強み」を活かして役割を担っていくか。
ということが非常に重要だと考えています。
※1 地域包括ケア:重度な要介護状態となっても、住み慣れた地域で自分らしい生活を人生の最後まで続けることができるよう、住まい-医療-介護-予防-生活支援が一体的に提供される仕組み
しかし、2025年問題と言われるように、日本国における医療‐介護サービス、福祉の提供に関しての財政、及び諸制度は必ずしも明るいものではないと予測しております。
その時代の変化の中で、私たちは地域で新しい医療‐介護サービスを創造していかなければならないと思っています。
新しい医療‐介護サービスとは何でしょうか。
では具体的な話をしますね。
今は例えば訪問看護、訪問リハビリなら1時間で8,000~9,000円程度の報酬が事業所の収入となります。しかし、利用者さんから実質頂いている金額は1割~2割(介護保険)なわけです。
もし、これが10割になったらどうでしょうか。
果たして利用者さんは【今のサービスの質】で8,000~9,000円の価値をきちんと感じ、お金を支払うでしょうか。
本来、全てのサービスというのは「価値」と「価値」の交換です。
今は極端な話しですが、「1時間の医療・介護サービス」と「800~900円」を利用者さんとは交換しているわけですから、いきなり10割となれば相当厳しい状況になるでしょう。
そこでこれからの時代。
まさしく真剣に考えなければならないのが、
診療報酬、介護報酬に依存しない「民間サービスとしての医療‐介護」だと考えいます。
これらは必ず私たちは切り開いて行かなければいけないミッションの1つだと思っています。
まだ弊社では具体的な民間サービスの事業化の詳細は決まってはおりませんが、キーワードとしては「予防医学」「派遣」「ロボット」であり、そして間違いなくコメディカル職の活躍の場は医療‐介護の現場にとどまらず、「社会」が舞台になっていると予測しています。
コメディカル職、セラピストの知識、技術は本当に素晴らしいものだと思っています。
それをもっともっと地域、社会に発信しなければなりません。
それが専門職としての今後のミッションになるのではないでしょうか。
では、世界に発信する?!とはどういうことですか。ちょっとぶっ飛びすぎじゃないですか?
自分としては全然大真面目で、ぶっ飛んでいるとは思ってません!(笑)
私はポジティブな方なので、いつも “高齢化問題” “超高齢社会” という言葉をメディアで見るたびに
「すごい!!さすが日本!!世界一長寿国って素晴らしい!!」
「世界で例をみない、超高齢社会の到来?! ―ということは世界一の”超高齢先進国”ということやん!日本これからの医療や介護サービスの仕組みは先進的モデルになるはず!!」
ということを考えています。
事実は一つ。解釈は無数ですから。考え方は自由です!笑
「日本の課題」という視点を、パラダイムシフトさせて考えれば、“超高齢先進国” という最高にワクワクする話になりますよね。
しかも日本は高齢化が進んでいると言われているヨーロッパと比較しても高齢化率は圧倒的なんですから…。
はい。
そこで私が考えていることは、日本が「ものづくり産業大国」として、世界に大きな価値を提供している中、次の時代に必要なものは医療-介護サービスという名の「おもてなし産業」であると考えています。
“超高齢先進国”で培われる質の高い地域医療-介護サービスを、世界に発信していくことで、大きな社会への価値に繋がるのでは。と思っています。
そして私としてはやはり今後の日本の地域医療-介護の危機的な課題は「財政難」と「人材不足」だと思っています。
一方、アジア圏に関しての課題はおそらく各国の状況にもよると思いますが、そもそもの医療技術不足、医療インフラ不足(人・物共に)が課題と考えております。
この双方の課題に対して、おそらく日本の医療メンバーがイニシアティブをとって、アクションしていくことで双方がWINWINになり得ると予測しています。
世界への発展に向けて、具体的に何処の国で何をすんの?ー
というのは現時点では明確ではないのですが、キーワードでいうと「医療人材教育」「人材交流」「障がい者雇用支援」「人材派遣」等ですね。
この仮説を立てた上で、地域医療や障がい者就労支援の発展を各地域(金沢、名古屋)で推進するとともに、私たちは2~3年後に本格的に「海外事業調査部」となるような部門を法人内で立ち上げ、まずはその部隊でアジア各国のニーズ、事業機会の調査を明確にしていきたいですね。
もちろん、その調査部隊は日本の地域医療に携わった、看護師、PT、OT等でメンバー編成、選任をし、地域医療、在宅支援をある程度わかった上で、そのメンバー達が中心になって明瞭なマーケティングや課題調査を行います。
そして、どの国に、何を、どのような形で、、、。
という事業計画を描いてもらいます。
社内のリーダー、メンバーの意向や、マーケティング調査の結果、そしてその上で作成した事業プランによって「どの国で何をするか?」が左右されると思いますが、直感的にはどの国であってもそれが結果的に日本の地域医療にもプラスになる活動ができるのではないか。と考えています。
海外法人設立は2021年と決めているので、それまでにますますしっかりと名古屋と金沢を中心に地域医療や障がい者就労支援を発展させて、私を含めてスタッフ、社員、障がいスタッフ皆で成長していきたいですね。
最後に一言お願いします!
長いお話に付き合って頂いてありがとうございました。
ちょっと最後に深い話なんですが、
今までのお話でなんとなーくわかったと思うんですけど、
別に私はただ「海外に行きたい!」 ―てわけでは実はないんです。むしろ英語喋れないしな、、、。
でもこのような中長期のビジョンを持つことで、
社会への価値 = 皆の幸せ
という最も大切な軸に沿って法人が生きることができます。
そして一番大切な目の前にいる利用者さん、障がい者さんを「ずっと」幸せを提供するためにも必要なビジョンだと強く思っています。
また、私個人の願望である
「大切な人達と夢を叶え合う」
という願望も実現されていきます。ー
「大切な人」。
一番は一緒に仕事をしている社員の皆さんです。その中には障がいのあるスタッフも数十名います。
その皆でお互いの夢、願望を叶え合いたい。
なので厳密にいうと
「地域で医療‐介護を創造し、世界へ発信する」
というビジョンもあくまで目的ではなく、手段なんですよね。ー
ありがとうございました。
今回のインタビューで小さいころのお話を伺っている時に、こんなことを言っていました。
なんで自分ばっかり病気なんだろう。つらく、しんどく、寂しいことがたくさんあったようです。
何度か入院したときのことは全て覚えており、退院して家に帰れることは、本当に毎回嬉しかったとのことです。
そんな少年が大きくなり、
病気や障がいがあってもできる限り入院せず、地域で、社会で活躍できるように支援していること。
これはご自身が小さいころに体験したことが信念となり、軸となり、そして形となって展開されていることなのかもしれません。